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写真をクリックすると動画が見れます。下段には各巻のあらすじが述べられています。 | ||||||||||||
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第32軍司令部 (首里城地下壕) | 首里地下壕撤退 集中砲火のなか南下 | 南風原野戦陸軍病院へ 司令部から伝令任務 | 南部島尻へ斬込任務 途中いろんな事に遭遇 | 任務の途中高嶺で直撃 17人中1人のみ生き残る | 深手を負い身を引きずり 真壁大爆撃で又も一命を |
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民家のざわめきが… ただひたすら摩文仁へ | 摩文仁ヶ丘の中腹を進む 不思議な現象に遭遇 |
バス降りて徒歩で説明 変わり果てた司令部通路 | 司令部にて傷手当て 司令官より解散命令 | 標準語より方言が... その意味するところは? | エピローグ、話は一段落し 周囲の観光客に説明 | |||||||
各巻の簡単なあらすじ (ここを読むだけでも録画の大体の内容がわかります。) | ||||||||||||
メール受付; johiro@greenh.jp; |
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第1巻(第32軍司令部_首里城地下壕) この第1巻目についての大まかなあらすじは、 首里城の下にある第32軍司令部壕の内部構造や出入り口の場所を説明。 入り口は2つ、途中一本の坑道になったところに司令部室があり、 出口近くなると2つに分かれたとのこと。最後に残った97人の兵隊が 壕の出入り口を爆破し、中に入れないようにしたとのこと。 第2巻(首里地下壕撤退_集中砲火の中南下) この2巻目についての大まかなあらすじです。 牛島中将率いる司令部が南下撤退する為に壕を出た数時間後、自分達も出る。 途中仲間2人がやられた為、彼らを病院へ運ぶ決死隊4人の1人として名乗り出る。 首里から南下する所に山部隊野戦病院があり、そこに担架で運ぶ。 病院と言っても壕であり、中は板敷きで敷き詰められており、阿鼻叫喚の 負傷者で溢れ、死んだ者は外に置き去り。止まない艦砲射撃の為、外に出ることは 危険であり、壕の出入り口付近は無数の砲火により、死体が散り、雨季の為 肉片と土が雨によってジューシーに赤く染まり臭気が漂っていたとのこと。 第3巻(南風原野戦陸軍病院へ_司令部から伝令任務) この第3回目についての大まかなあらすじです。 南風原の兼城十字路周辺は、与那原と那覇港沖合い、そして中部戦線からの 集中砲火で死体の山、そこを何とかすり抜けて通ることができた。 つい前迄は、首里地下壕の司令部から南風原病院への3回の伝令命令を遂行する為に、 そこを行ったり来たりしたもんだが、今回は撤退と斬り込み任務を帯びて、 もう戻ることはないないであろう戦線の敗退移動である。 第4巻(南部島尻へ斬込任務_途中いろんな事に遭遇) この4巻目は、司令部が首里からの撤退後、鉄血勤皇隊4個班に結成され、 それぞれ班長(伍長・軍曹)の下、玉城・具志頭・高嶺・糸満の4つに分かれた。 命令は斬り込み隊の任務であり、各自手榴弾5個、煙草5個が渡された。 その任務遂行中に、那覇港より放たれた一発の艦砲爆弾がすぐ側の小山に当り、 不発のその爆弾が目の前に転がり落ちた。直径45センチ程型の砲弾だったとのこと。 人の運命の不思議さに、何か神めいた、名状しがたい思いがあったそうだ。 第5巻(任務の途中高嶺で砲撃受け_17人中1人のみ生き残る) この5巻目は、一生忘れられない、そして子々孫々まで語り継ぐべしと 自分に言い聞かせる...九死に一生の出来事である。 斬り込み隊任務の途中、高嶺村にある屋敷に兵隊、民間人の計17人が寝ているときに 一発の艦砲射撃で自分一人以外全て即死。砲弾の破片で体中血だらけのところ 民間人に助けられるが、「敵が迫ってきているのでもう行きます」と、 生きていながらにして線香をたかれ、それでも飲まず食わずの生き地獄が続く。 第6巻(深手を負い身を引きずり_真壁での大爆撃で又も一命を) 第6巻目についての大まかなあらすじです。 爆弾で1人だけ生き残り、血だらけの中、指突っ込んで破片を取り除き、傷口から うじ虫が発生するも、生きようとする力が勝り、治療の為野戦病院探しに 亀の如くゆっくりさ迷い歩く。他の傷ついた兵隊と出会い、近くの屋敷に 身を隠すが、そこで見たことは地獄さながら、人間と称する世界観の崩壊であった。 そこの部落の全ての家々が、艦砲射撃により壊滅に至ったのを、自分の目に映し 出されたのだ。自分がいた屋敷以外は全滅... そこに映し出された情景は、艦砲射撃の中、母が子を捨てる... 今にも死にそうな首の切れた母のおっぱいを吸う乳飲み子… 死んだ子を爆弾穴にスコップと共に放つ...、などなど。 そのとき感じたのは、人間は最後は自分一人なんだ、自分が一番大切なんだと! (ここをクリックすると、この想像スケッチ図が見れます) 第7巻(民家のざわめきが聞えるも_ただひたすら摩文仁へ) 第7巻目の大まかなあらすじです。 戦後になってわかったことなんだが、知人・親戚もこの辺に逃れていたようである。 所どころで話し声が聞えるも、何かに引っ張られるように前へ、前へとただ前進。 夜中、兵隊2人に出会い「あそこはもう危ない、戻りなさい」と言うが、もはや 聞き耳持たず、前進のみ。焼夷弾によるものか、村が燃えている。夜中、燻ぶった村を 抜け、雲と見まごう丘らしきものが目に入り、気持ちに一種の明るさを感じる。 第8巻(摩文仁ヶ丘の中腹を横道進むが_不思議な現象に遭遇) 第8巻目の大まかなあらすじです。 深夜、摩文仁(マブニ)の丘に登り、途中横道に沿って歩き続けると、「誰か!」と誰何される。 自分の身分を明かすと、そこで待つように指示される。夜が明けて周囲を調べてみると、 野戦病院らしき跡もなく、少し前に行って見渡すと、敵の前線あり。昨夜のことが 不思議でならないが、その当時の状況は前にも、後ろにも進めず、断念の心境。 あきらめて消沈してうずくまっていると、足元に電話線が目に入る。 そこで又、心臓がどよめき、生きる力が湧いてくる。 第9巻(バス降りて徒歩で摩文仁ヶ丘へ_変わり果てた司令部への通路) 第9巻目の大まかなあらすじです。 ここからは自家用車を離れ、シャトルバスで乗り降りしてから、徒歩による説明をする。 前述の電話線に沿って摩文仁ヶ丘(マブニ)を更に上っていった。 それは、前線より後方司令部への連絡線であった。 司令部壕入口近くで門番みたいな兵隊に誰何され、中へと案内され簡単な治療が施される。 丘から見下ろされる海岸沿いはしかばねでいっぱいだった、と話す。 当時の摩文仁ヶ丘の岩の割れ目は司令部への通路であり、 又、敵攻撃へのゲリラ的戦法の通路でもあったが、現在は埋められてしまっているとのこと。 第10巻(司令部に行き着き傷手当て_その後司令官より解散命令) 第10巻目の大まかなあらすじです。 司令部壕で簡単治療し通院許可は得るが、狭いので近くの壕で休むようにと。 以前は、なだらかな岩盤状で、人が歩いて行き来でき、海辺までも下りることができた。 艦砲射撃により、岩盤は形状が全く異なってしまい、歩けるところではない。 スパイがいて、日本軍の情報が殆ど読まれていたという。 ついに司令部は解散命令を出したとのことで、その後各人は、統制のない動きで、 死に行く人、深手を負うもの、白旗を揚げるもの等、 様々な運命の中で、父の動きは水を求めて、海岸の湧いた溜まり水を血の臭いと共に 飲み、死んでいる兵隊達の側に落ちていたソラマメを口に押し込み... 気を失う... 第11巻(標準語より方言が..._その意味するところは?) 第11巻目の大まかなあらすじです。 前巻(10巻)でも述べているが、水を求めてさ迷ってい時、 どこか壕みたいなところからささやくような話し声が聞える。 「水をくださいませんかー」と声をかけると急に話し声が止んだ。 「ミジクィミソーリ」と同じ意を方言で話すと、 下に湧き水が出ているとの説明が方言で返ってきた。 当時、沖縄方言を話すと他府県兵隊にとっては意味不明なので、 厳重注意で使用不可だったらしい。 スパイの嫌疑はその辺にも向けられていたのだろうか...? 第12巻(エピローグ、話は一段落し_周囲の観光客に説明) 第12巻目は、お話は一通り終わり、周囲で聞き入っていた観光客が前のめりになり、 それに応ずるように、話は繰り返される。 この戦時話は、水を飲んで気を失い、気がついたら米兵に傷の手当を してもらって助かった、と言うことで終わっている。 沖縄師範学校から熊本の予備士官学校に、そして岡山の予備士官学校に 移動しようとするところ、戦時体制になりつつある自分の出身地沖縄に 戻ることを許され、激戦の中を生き残り、その様子を話しているのである。 一般的に、新聞・雑誌・テレビ等のメディアでは、 悲惨な戦争体験による平和への想いを伝えるのが通常だが、 父の口ぶりからは、鉄血勤皇隊として命令を遂行するため、ただ戦争を生き抜き、 不思議な生命力といようか、自分を鼓舞するようすが窺える。 そして凄惨なる体験を通して、自分の運命を操っている名状しがたい何かに、 想いを引かれ、"今"に至っているようである。 戦後、沖縄南部戦線を思い出し、歩き回り、当時の状況とその周辺・土地との因縁を 調べ上げ、我々祖先へ辿り着き、初めての系図の作成、自分の生家旧屋敷の再建、 仏壇への敬虔なる法事ごと、自分の家族への想い等を達成され、 自分史は終わったのだと思う。 2003年(平成15年)尊敬してやまない我らの父は他界した。享年80歳でした。 |
----------------------------- 写真をクリック拡大 ↓ 戦時間近の写真か? 上の写真の撮影場所 ――――――――― 2020年6/22 琉球新報記事記載 |
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完 |